The Prayer Book Platonist includes books, homilies and articles broadly on the themes of:

  1. The tradition of the Church of England’s Book of Common Prayer – not just 1662, but its various precursors and increasingly international successors, not least the Prayer Book of the Japanese Anglican Church.
  2. The broadly Platonic strand of Christian and Islamic thought and its rich spirituality, including the likes of Pseudo-Dionysius, Augustine, Eckhart, Ibn Arabi, the Cambridge Platonists and more recently, C.S. Lewis and J.R.R. Tolkien.
  3. Sundry Japonica, including Aikido, the shakuhachi, and inter-faith theological explorations of Japanese Buddhism, particularly that of the Shin (True Pure Land) school.

The author insists that the apparent eccentricity of these interests does in fact converge into a unified whole… AMDG!

Immediately after the feeding of the five thousand, Jesus made his disciples get into the boat and go on ahead
かつて、フランス人の哲学者サルトルは「L’infer, c’est les autres」、つまり「地獄は他人だ。」と言いました。しかし、私はそうではなく、イギリスの作家で『ナルニア国物語』の著者、C.S.Lewisが言い表す、「地獄は自分で作る牢獄であり、その鍵はドアの中にある。」という考え方のほうがずっと好きです。そうです、地獄とは自分の心を牢獄にしてしまうことにほかなりません。私たちを地獄に閉じ込めるのは神様ではなく、私たち自身なのです。そしてその一方で、私たち自身の心の中に牢獄の扉の鍵があります。その鍵は自分自身と他人との関係そのものであり、私たちの周囲にいる他人は「地獄」ではなくて、むしろ天国への鍵なのです。 さて、ここでいう「他人」とはいったい誰でしょうか? 主イエスは律法を次のようにまとめました、「神を愛し、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ。」しかし、隣人を愛するのはそんなに難しくないでしょう。実は、ユダヤ教の律法は隣人に対する愛よりも厳しかったのです。そこには「あなた方の元に留まっている寄留者、-ここでは外国人といってもいいでしょう-は、あなた方にとってはイスラエル人と同じである」と書いてあります。この戒めは旧約聖書に36回以上も繰り返し登場します。 主イエスはこの厳しい戒めを超えて、「寄留者」だけではなく、敵も愛さなければならないと言われました。すなわち、私たちは神様の愛から誰をも締め出すことは禁じられています。もし人を嫌うなら、それは自分の心の中の地獄を作ってしまうことになります。そうではなく、神に与えられた愛を他人に与えられれば、私たちは神の国の民になります。隣人、他人、敵は皆、天国への鍵なのです。 古代イスラエル人は「難民」となる辛さをを十分に味わっていました。現在のユダヤ人もつい最近までそうです。アブラハムの時代から異住民であり、またエジプトで奴隷になり、エジプトからのがれてから、自らの首都エルサレムを外国で創立しました。その後バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国に征服されたため、ユダヤ人には西暦70年から、イスラエル建国の年、1948年までの実に長い年月、自分たちの国というものがありませんでした。「神様が選んだ民」は長い間、移住民と難民だったので、ユダヤ人は他の国に住んでいた時、大変に迫害されました。ユダヤの律法が「寄留者」を大事にするのは、そういう歴史の故かもしれません。 教会はユダヤ人を迫害したことがあるにもかかわらず、ユダヤの律法にある他人についての掟はキリスト教の伝統に影響を与えています。中世ヨーロッパの修道院には、「保護の十字架」というものがありました。保護を求めていた人は、たとえ罪びとであっても、その十字架に触れることで、修道者たちにかくまわれ、保護してもらえたのでした。アイルランドの修道院に行けば、今でもその『保護の十字架』を目にすることができます。 現在、難民は世界各国でこのような手厚いもてなしを受けているわけではありませんね。もてなしどころか、日々48000人もの人々が自分の国を追われています。そして8000万もの人々が生まれた国に戻れず、まさに他の国で保護を求めているのです。 多分皆さんは、ニュースなどで海上難民の映像を見たことがあるでしょう。彼らはアフリカ大陸からイタリアに向かうことが多いので、イギリスのニュースでもしばしばとりあげられます。その映像を見て、皆さんは何を頭に浮かべますか? 彼らはいったいどのような人たちだと思いますか? 国や納税者にとって負担となる存在なのか? 海外からのいらない宗教を持った、社会になじめない人たちなのか? あるいは脅威と感ずるか?  不安を感ずるのは自然なことではありますが、そのニュース映像を見るとき、私たちはを忘れてしまうおそれがあります。それはちょうど、統計を読むときに、人を番号化してしまい、皆それぞれがひとり一人の人間であることを忘れてしまいがちなのと似ています。 難民たちが現実の人であることという大切な事実を忘れないため、ここで一つの例をご紹介することをお許しください。2年前のことですが、私はイギリス南東部にあるウォルシンガムという村に行き、若者らの年次巡礼に加わりました。世界中の巡礼者が毎年この村に集まります。そこで、私はあるイラク人の執事に出会いました。名前をミランと言います。ミラン執事は難民ではありませんでしたが、ミラン執事の多くのイラク人の友達と親戚は、クリスチャンだったために迫害を受け、難民になりました。多くの家屋、店舗、そして教会が破壊されていました。女の人はテロリストに襲われ、戦争の後に妊娠して戻るようなありさまでした。キリスト教徒は6世紀からイラクに住んでいましたが、今ではあまりいません。自分の国と故郷から出て、好んで難民になりたがる人はいるはずもありませんが、彼らはどうしようもありませんでした。今、ミラン執事は司祭となって、自らの身に危険が及ぶにもかかわらず、母国に戻り、そこに残るイラク人クリスチャンのために働いています。 このイラクの例はひとつの例に過ぎませんが、今度、皆さんが難民の映像を見る機会には是非このミラン執事の経験を想像してほしいのです。 私たちはいったいどうしたらよいでしょうか?  この礼拝の説教者として、私には政治的解決策を与えることはかないませんが、チャペルとして、今日はここで祈りを捧げる可能性は残されています。祈りながら、他人を愛してみようと約束できます。また、私たちの本当の国が天国なら、この世にいる時、私たちも実は移民、難民、外国人なのだと悟ることができます。私たちの本当の国への鍵は、飢えている人に食べ物をあげ、旅をしている人に宿を貸し、裸の人に服を着せることにほかなりません。 私たちの周りにいる他人は地獄ではなくて、天国への鍵だからです。 アーメン。 Sartre, the French philosopher,
聖ヨハネの福音書に書いてある通り、主イエスが十字架につけられた時、兵士が槍でイエスの脇腹を刺しました。すぐに心臓から、血と水が流れでました。  今、イギリスのリッチフィールド大聖堂の真中に掛けられている大きな十字架の新しいアイコンを見えば、イエスの脇腹に二つの細い線が見えます。一つは青、一つは赤で、その線はイエスから流れ出た水と血を表します。  聖餐式の「奉献」の時、司祭が聖餐式を準備していて、葡萄酒とお水を混ぜます。それもイエスの脇から流れた血と水を記念するためです。その血と水はイエスの二つの要素、つまり、イエスの神性とイエスの人間性を表します。イエスの心は、共に神の心と人間の心なので、私たちの心と神様の心を繋げます。  今週の金曜日は「聖心」の祭りです。「聖心」の意味は、主イエスの槍に刺された聖なる心臓のことです。カトリック教会で人気があるので、日本でも「聖心教会」「聖心女子大学」とかよく見かけられます。  多分、カトリック教会や他のキリスト信者たちは「聖心の祭り」が聖公会にあまり関係がないと思っていますが、実は、主の聖心の崇拝の元はイギリスにあります。中世イギリスでは、キリストの傷と血の崇拝が流行っていました。宗教改革の後でも、17世紀の聖公会神学者がキリストの傷と血と聖体との関係、それを崇拝することを守りました。  19世紀まで、王室のスチュアート家が聖心の礼拝を守っていました。18世紀のイギリスはあまり信仰深くない時代でしたが、19世紀の英国国教会では、オクスフォード大学から「カトリック復興運動」が広まるようになりました。その影響を与えられて、現在のイギリスの聖公会では、沢山の教会に聖心の像と祭壇があります。  カトリック信者だけではなくて、いろいろの教会から多くの人々が主イエスの聖心に頼り信じるようになりました。主の心臓と、主の私たちのために流された血のことを考えると、主の溢れる愛を経験できるようになれます。主が刺された心臓の痛みを考えることは、私たちの心をやわらかくしてくれます。主の聖心を眺めれば、私たちの愛の不足を悟って、懺悔して、主に許していただくようになれます。  今日は、十字架や聖体の前で黙想したり、救い主を見たり、刺された脇腹を想像したりして、イエス・キリストの精神から流れ出る愛と慈しみを経験しませんか?その愛が私たちの心に入って、また私たちの心からその同じ愛が、今日会う人々の心に届き、愛が溢れるように祈りましょう。 主よ、私は自分の罪深い心をあなた前に差し出します。あなたの心の愛を私にお与え下さい。わたしの心を、あなたの愛に似たものにしてください。
Jesus said to his disciples: ‘Do not judge, and you will not be judged; because the judgements you give are
マタイ6:19−24・Homily on Matthew 6:19-24 (English follows the Japanese) 今、みんながマスクをする時代になって、前よりもお互いの目を見るようになったと思いませんか? 私は立教に来て間もない新人なので、マスクをつけてしか会ったことのない人が周りにまだたくさんいて、Zoomでマスク抜きでお会いすると、想像していた顔とは違うので、驚くことがあります。 今日の聖書の中で、イエスは3つのポイントを指摘しています。最初と最後は、私たちが最も大切にしているものと、私たちが仕えるべきものについてです。 つながりは明らかです。 私たちは、最も大切にしているものに対してしもべ、あるいは奴隷になります。お金は天国に持っていくことはできませんから、それを得ることに集中して人生を過ごすのは、時間の無駄です。 さらに悪いことに、愛や友情という目に見えない大切なものを無視することになります。お金はたやすく無くなりますが、その見えないものは永遠に続きます。 お金を失うと、あとには何も残りません。しかし、もし神への信仰を自分の宝とすれば、金持ちであろうと貧乏であろうと関係ありません。この世でも天国でも、目に見えない豊かさと溢れる愛を持つことができるからです。 イエスは、お金が悪いものと言っているのではなく、お金に執着することが悪いと言っているのです。神様と隣人への愛のために、お金を正しく使わなければなりません。 このように、最初と最後のつながりは明らかです。しかし、真ん中の「目」についての部分はどうでしょうか? 私たちは、目は映像を受け取るものだと思っていますが、主イエスは、目は伝えるものだと語っています。マスク時代こそ、そのことがよくわかるかもしれません。目はその人の性格や気分、時には秘密をも表します。優しい目、笑っている目、思いやりのある目、残酷な目、あざ笑う目などがあります。 そして、欲張りな目もあります。 池袋キャンパスの第一食堂の扉の上に書かれていることにお気づきでしょうか?"Appetitus
豊かなお祈りの生活ができれば、主イエスに私たちを向け直す時、私たちの中で、分裂と争いへと誘おうとする悪霊は黙り、追放 されていきます。その代わりに、愛の霊が私たちの中に生きます。
音楽はどういう意味でしょうか?ただ、楽しむためだけですか?もちろん、音楽を楽しむことは良いですが、もっと深い意味があると思います。古代の哲学者プラトンによると、音楽の勉強は教育の基本とするはずです。
昨日は精霊降臨日だったので、なぜ私が特別にこの朗読を選んだのか?このテキストが何時、そしてなぜ書かられたかと考えったら良いと思います。
この「イエスの愛しておれれた弟子」は誰でしょうか?福音はその弟子の名前を表さない。聖ヨハネの福音の泣けで、この「愛しておられた弟子」は4回出るが、毎回無名です。
「スマスリク」という言葉をご存知ですか?ごん存じなら、私がびっくりします。自分で作った言葉だからです。「スマスリク」というのは、逆から書いた「クリスマス」です。それは先週お祭りした「昇天日」の意味です。

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