教会は溺れている船ですか?

説教、福井聖三一教会
プラント・トーマス神父
福音書:聖マタイ14:22ー33 (湖の上を歩く)

主イエスにも、 暗い時が 幾度かありました。 古里に戻って、 説教しようとしますが、 「故郷で敬われない預言者」として 追い出されてしまいます。(Mt 13.57f) そこの人々の信仰不足のせいで、 イエスは奇跡を起こしません。 そして、 主はいとこの聖ヨアンネ・バプテストが王様に殺された と聞きます。 そこで一人で人里はなれた所へ行こうとしました(Mt 14.13)

しかし、 その人たちの信仰不足にもかかわらず、 多数が主に従います。(Mt 14.13) この時は、 主は説教しません。 その代わりに、 奇跡を起こして 病人を癒して、 飢えた者に食を与えます。 何も言わなくて、 ただ一つの大きな慈しみの行動をします。 世のためではなくて、 ただその瞬間に その所にいる人のために、 無信仰の海の中で 小さい信仰の島の如き、 奇跡を起こします。

多分 主は誰とも話したがっていませんでした。 多分 苛立って この奇跡を起こしました。 多分 その人々に神様の愛について話すことに失敗したから、 神様の愛のことを 奇跡で表そうと決めました。 いずれにせよ、 人々の群衆を追い返して, 何も説明しなくて 弟子たちを先に行かせて、 ついに 一人でいることができました。 (Mt 14.22-24)

なぜ「一人で」いようとしたのでしょう? それは大事な質問です。 答えは、 お祈りのためでした。 そしてお祈りした後だけに 池の上を歩き、 嵐を鎮め、 平和を弟子たちに捧げることができました。 主の大慈悲の根本は 一人で祈ることでした。

イギリスのウスター地方の私の実家の近くに グラスハンプトンと言う修道院があります。 英国国教会のフランシス会の修道院です。 イギリスで、ほんとんどの人は 英国国教会で修道士がいる ことを知らないです。 その理由は、宗教改革 時代に ヘンリー8世が修道院を全部破壊したからです。 しかし、 英国国教会の19世紀のカットリック復興で、 たくさん新しい修道院が造られました。 グラスハンプトン修道院の創立者のウイリアム神父は 修道士の存在が教会にとって 大変重要だと思いました。 ウイリアム神父は言いました。 「教会は、宣教が弱いなら、祈りが弱いからです。」

教会は 時々 溺れている 船 みたい ですね。 それで、 牧師たちは よく 自分の言葉と動作で 船を直そうとしますが、 主イエスの例は それと違います。 主は、 自分の暗い時に、 あまり話しませんでした。 世の問題を解決しようとしませんでした。 社会正義とかの 説教をしなくて、 ただ一人で 人里はなれた所に 祈りに行きました。

主が起こす奇跡は どう言う意味でしょうか?

今、世の中に数えきれないほどの飢えた人がいる中で、 昔、主が五千人だけに食を与えたことは どう言う意味でしょうか?

私たちが現在のコロナウイルスなどの状況を考えると、 昔、主が数人だけをいやした奇跡は どう言う意味でしょうか?

現在、教会が溺れそうな時、 昔、主が池の上を歩いた奇跡は どう言う意味でしょうか?

もし主がこの世の社会的問題を解決するためだけに 教会を作ったら、 失敗です。

このような奇跡は 本当にどう言う意味かと分かるためには、 聖ペトロのことを考えたら良いと思います。 と言うのは、 聖マタイの福音書で、 聖ペトロは教会を表すからです。 今日の福音書の話では、 聖ペトロは船から降りて、 主イエスに急いで会いに行こうとして、 溺れそうになってしまいます。 ただ「主よ、助けて」と叫んで初めて 風が鎮まってきます。 主の前にぬかずいて初めて 主イエスが誰か分かってきて、 「主は神の子です」 と言えるようになります。

「神の子」。 その後、違う場面で、 聖ペトロはこの言葉を再び言います。 主が四千人に食べ物を与えた後で 弟子たちはもうパンが足りないと心配しています。 それで、主が奇跡の意味を表します。 主は「パンについて言ったのではないことが、 どうして分からないのか?」 と聞きます。 主は砂漠で、石をパンに変えることを拒んだでしょう。 主は人間に普通のパンを与えるために来ませんでした。 主イエスが与えるパンは 自分の体のパン・ 教えのパン・ 命のパンで、 このパンを信仰でいただいて、 祈りで味わうものです。 しばらく経ったのち、主は弟子たちに 「あなたがたは私を何者だと言うのか?」 と聞きます。 ついに、聖ペトロがパンの意味をわかるようになります。 そして、正しく答えます。 「神の子です。」

弟子たちは嵐の中の池で主イエスに会いました。 私たちが審判の日の嵐の中で主に会う時には、 主が聖ペトロに言われた通り、 主に私たちにも 「信仰の薄いものよ、なぜ疑ったのか」(Mt 14.31) と聞いて欲しいですか? 私たちが 主の本当の神の栄光を照らす姿を見たいなら、 私たちの務めは お祈りです。 お祈りしなければ、 主のパンを心に受けなければ、 教会は 世の群衆に全くあげるものがありません。

しかし、 教会は、 お祈りが強ければ、 まちがえなく、 宣教も 強くなります。

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