Fr Thomas Plant, Tokyo-based Anglican priest and comparative theologian

Month: August 2018

パンが欲しい人誰? Who wants bread?

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主イエスは「私は命のパンです」 と言いましたが、 パンがほしい人は だれ? もちろん、 世の中で、 パン・ご飯など食べれない人が いますけど、 日本の現在のグルメ文化で、 パン だけ では つまらなくない ですか? 食事のテレビ番組や 雑誌がはやってる 時代、 スーパーで毎日捨てるように 食材がありすぎる時代で、 パンより アキヨシの焼き鳥、ヨーロッパケンのカツ丼の持ち帰りを 頼みませんか?

私の国イギリスと日本では、 本当に飢える人が少ないです。 十分食べられる人が ほとんどに なりました。

過剰な食料の上に、 贅沢品、 ソーシャル・メディア ビデオゲームなどの食いしん坊になる危険があります。 この新しさ を常に追求する世界で、 データの食いしん坊になる危険もあります。 お腹だけ じゃなくて、 私たちの 頭も いっぱいです。 しかし、 いかに費やしても、 まだ もっと ほしい。 結局、 多分この世は まだもっと深い飢えで 飢えています。

イエズス会の創立者 聖イグナチオ・デ・ロヨラは この飢えをよく分かっていました。 軍人でしたから、 昔の騎士の話の本が大好きでした。 一度、 病気になり入院して、 病院で聖人の話の本しか ありませんでした。 あまり 読みたくないのに、 それしかないから 読み始めました。 驚くことに、 その聖人達の話が好きになりました。 聖人も、騎士のように、 勇ましい人だ と知りました。 しかし、 大きな違いがありました。 騎士の話が終わると、 楽しみも終わってしまいました。 逆に、 聖人の話が終わっても、 楽しみはずっと続きました。 イグナチオが聖人の生き方に従って生きると、 永遠の平和を感じました。 イグナチオの上辺上の欲しい物は その騎士の生き方でしたけど、 彼が心の底で 本当に欲しいと欲しったものは 聖人の生き方 そのもの でした。 神様の意志は 私の「欲しいもの」じゃなくて、 私の「欲しいと欲しったもの」だ と見つけました。 欲を感じると、 欲の欲、 つまり欲の原因を考えないと、 と言う意味です。 したがって、 私たちは、 世が与える物が欲しいと考える時、 この質問を聞いたら良いと思います: 「上辺だけで欲しいものではなくて、 欲しいと欲しったものは何でしょうか?」

毎週、聖餐式に来る前、 世にもらった物でお腹が痛いなら、 多分吐いたら良いです。 と言うのは、 心を空にすることです。 お腹がすく状況で教会に来たら 良いです。 その為に、 まず、 沈黙の時間と黙想の時間が必要だと思います。 それから、心からの懺悔。 そしたら、 主イエスが与える 永遠に限りないパン を欲するようになって、 美味しそうだ と思って来ます。

I am the bread of life, said Jesus.

But who wants bread? Of course, for many people in the world, bread or rice, or any food at all, is a luxury. In this gourmet age, with TV programmes and magazines devoted to nothing but food, when you can choose to have Akitoshi yakitori or Yoroppaken katsudon delivered to your door, when supermarkets have so much food, they throw much of it away, why settle for anything so boring as bread alone?

In my country and here in Japan, few people go hungry. Our bellies are full.

And yet, for all this world has to offer, we keep consuming. Not just food, but the latest luxury goods, the latest Twitter feeds, the latest computer games, the latest adverts. Even the news can become an addiction. We can become gluttons for material things, even data-gluttons. Our minds as much as our bellies are over-fed: and yet, all around us, however much we consume, we still crave more. It seems there is a hunger which the world cannot feed. A deeper hunger.

St Ignatius of Loyola, founder of the Jesuits, understood this well. A military man, he enjoyed adventurous tales of knights and soldiers. Later in life, confined to his sick bed, he was left with nothing but a book of stories of the saints to read. He found, to his surprise, that he enjoyed reading about their very different kind of heroism. And the difference was, that when he had finished reading the war stories, the pleasure ended; but when he had finished reading the life of a saint, the pleasure remained. The war stories gave him what he wanted, but the saints’ stories gave him something deeper: they gave him what he wanted to want. This insight became the basis for the Jesuit process of discernment, and a question which can help us to find God’s calling for us: what is our deepest desire? We may want what the world offers at one level, but what do we really wish we wanted? That is what God wants for us.

Perhaps sometimes, after we have grown sick from all the rubbish the world feeds us, we need to throw up. We need to empty ourselves. This requires silence, time away form the world’s distractions, and an honest confession. Then we can understand what food our souls really need. Not the fleeting pleasures of what we want in the moment, but the lasting joy that comes with doing God’s will. And this, Jesus says, is the bread of life. So, come to church with an empty stomach; come with an empty will, with a conscience cleansed by confession, and receive the simple bread of life which will nourish for eternity.

The opinions represented herein are those of Thomas Plant only.

命のパン


「わたしが、そのいのちのパンなのです。わたしのところに来る人は、二度と飢えることがありません。わたしを信じる人は、決して渇くことがありません。」
主イエスは渡される夜、パンを取り、弟子達に与えて言われました。「取って食べなさい。これはあなたがたのために与える私の体です。」
神が聖母マリアの子宮へ聖霊を送れること、人間になれること、奇跡を起こせること、復活できること、天国に昇天できること、弟子達に聖霊を送れることと、ほとんどのキリスト教徒が信じます。しかし、信徒の中でも、イエスが渡される夜で言ったことを信じない人が多いです。
イエスの時代でも、わたしが、そのいのちのパンなのです」と言った事を疑う人が多かったです。このたことは比喩だけではありませんでしたけど。何回も、イエスがユダヤ人の弟子達にに「私の体を食べなければならない」と言ました。その上、聖ヨハネによる福音書第章57節に「食べなさい」と言う時、イエスがギリシャ語の珍しい言葉を使いました。「τρωγειν」と言う言葉です。τρωγειν」は「食べる」だけを意味せず、実は「噛む」を意味します。本当に、「私の体を噛んで」と言っていました。大変な事でしょう。もちろん、人間の肉を食べるのは、「コーシャー」と言うユダヤ教の食べ物の規定で禁じられていますね!イエスが「私の体を噛んで」と言った時、沢山の弟子がイエスの元から去りました。イエスの言ったことが比喩だけだったら、弟子がイエスの元から去ったと思いますか?
聖餐式を行う度に、キリストが常に私たちの中におられるように、キリストの肉を食べて、その血を飲むと、祈祷書で書いてあります。これは奇跡ではありませんか?私の意見で、「五つのパンと二匹の魚」の奇跡の話より、聖餐式が驚くべきな奇跡だと思います。
なぜなら、その答えは、今日の旧約聖書の特書の中にあります。出エジプト記の聖書の書は、ユダヤ教の根本的な話です。まず、エジプトから逃げる為には、子羊のいけにえが必要でした。そのいけにえの目的は、死の天使から自分たちの子供を守る為でした。その後、砂漠の旅の中、食料不足なので、モーセが神様に祈りました。間もなく、不思議なパンみたいな白い植物が出てきました。この物が何か知らず、「マン・フ(man hu)」と呼んだ。「マン・フ」は、ヘブライ語で「これ何?」を意味するからです。この天国からのパンみたいな食べ物を英語で「マンナ」と呼ぶようになりました。神は、モーセに次の事を言いました。神がイスラエル人と一緒にいる証として、主の箱にマンナのパンを入れておきなさい。この天国からのパンはずっとカナンに着くまで絶えませんでした。着いた所、マンナが消えました。
この旧約聖書の話によると、一度のいけにえ、そして一度の奇跡的なパンのお陰で、イスラエル人はエジプトからカナンまでの旅を成し遂げることができました。しかし、新しい契約によると、神の子羊の主イエス・キリスト様は、先程のイスラエル人が一度きりの旅で食べたマンナのパンではなくて、世の全ての人の為に、いつも絶えず、永遠に限りない天国までの旅の為のパンになりました。キリストはいけにえを一度しかしませんでしたが、そのいけにえの恩恵は永遠に続きます。と言うのは、キリストのいけにえ、つまりキリストが十字架で死ぬことは、一度だけでしたが、ミサでその恩恵をいつも頂きます。したがって、その昔の砂漠の中のイスラエル人はそのマンナのパンを大事にした以上に、尚更、私たちはイエスの体を示すパンを大事にする必要があると思いませんか?
今日は、この祭壇でこの上ない賜物を頂きます。つまり、主イエスのいけにえに参加して、私たちと世の全ての人のために与えられた主イエス・キリストの体と血を頂きます。昔のイスラエル人が経験した過酷の中にも、この賜物を頂いて、いつも神様に感謝して生きて行きましょう。

The opinions represented herein are those of Thomas Plant only.

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